ムダ毛は無駄なのか必要なのか
日本には、ムダ毛と呼ばれる毛が存在しています。
それぞれの毛には固有の名前が別にあるのに、総称してムダ毛と呼ばれます。
例えば胸に生える胸毛、脇に生える脇毛、すねに生えるすね毛、そういったひとつひとつの名前はあっても、
無駄な毛=ムダ毛
であるとされています。
ムダ毛を持つことはどんなことなのか?
胸毛やすね毛などは、中立的な名前です。
胸に生えているから胸毛。すねに生えているからすね毛。
ただ、それだけです。
しかしそれらをムダ毛と呼ぶと、そこには
意図の存在
を感じられるのではないでしょうか?
ご存知のとおり、よく目にするカタカナのムダ毛の『ムダ』は、実際には、漢字の『無駄』です。
そして、この無駄という言葉は、
- 無駄を省く
- 無駄をなくす
という表現で使われることが多いのではないでしょうか。
そうです。
僕たちの体の一部の毛を無駄だと表現することにより、それを省いたりなくしたりするように考え方を変えさせる、そういった意図が見えてくるのです。
毛深いだけなのかムダ毛に覆われているのか
誰かが、罪なく生えている体毛を無駄だと呼び始め、それが今や社会的なコンセンサスを得ています。
その証拠に、町中は脱毛の広告で溢れ、テレビやネット広告でも目にしない日はないくらいです。
つまり社会をして、毛深い人は脱毛をしてその体を覆っている無駄な毛をなくせ!と言わしめていることに成功しているのが、
ムダ毛
というワードです。
罪悪感があるのか、漢字よりインパクトの弱いカタカナをつかっているところに、多少の良心の呵責を認めますが、それでも
毛深い人は脱毛をしてその体を覆っている無駄な毛をなくせ!ヒャッはぁぁ!!
という根本的なメッセージ自体は、放射線のように発せられています。
その結果が、僕たち毛深い人たちが負ってきている不利益につながっているといっても過言ではないでしょう。
毛深い僕たちの多くは、昔から、
- 毛深いと言われあざ笑われ
- 毛深いと言われ悲鳴をあげられ
- 毛深いと言われ恋愛市場から排除される
というような経験をしています。
とはいえ、毛深い男に対する厳しい視線は空気のように社会を覆っているので、これを覆すのは容易ではありません。
そのため、僕たち毛深い男たちは、脱毛に手を染めなければ、不利益を被り続けていくことになっていくのです。
脱毛に手を染めるための手段はいくつかありますが、僕は家庭用脱毛器であるケノンを使いました。
ケノンは買い切りだし、一人でできるし、クリニックに比べたらお手頃な値段だったからです(背伸びすれば一括で買えました)。
おかげさまで今は、ムダ毛のせいで被っていた不利益はなくなりました。
社会を変えるか、自分を変えるか。
選択は人それぞれですが、僕は後者を選びました。


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