【ムダ毛は多いし気になるけど、もう30代だから脱毛したところでもう遅いでしょ……と思っている方に届けたい感動のこのストーリー】

脱毛

第一章:それでも僕はやっていない

 

 この世界に希望はあるのか。それがパ・カオの口癖だった。口癖といっても、実際に声にだしているわけでなく、気が付いたら考えていた。考え癖と呼ぶのが正しいのかもしれない。

 ある夏の夜。パ・カオは職場仲間との飲み会に参加していた。都内の繁華街、こじゃれた商業施設の上階の一室で電話の対応をする仕事で、訓練のときから生き残ってきた面々だ。

 その中のひとりに、パ・カオは淡い恋心を抱いていた。知的な顔立ちに薄い眼鏡を掛け、それでいて笑うときは少し豪快に、とはいえ可愛いと呼べる範囲に当てはまるぐらいの勢いのある声を立てる。そのギャップで、パ・カオはアイコに惹かれていた。

 日々、理不尽な顧客対応に追われたつかの間の飲み会だった。同期で仲良くなった男2人、女子3人という少人数。胸も高鳴るってもんですよね?

 しかし、結果は残酷だった。

 少しお酒が入ったのも手伝ってか、駅に向かう5人は、足取りだけでなく口も軽くなっていた。パ・カオより少しだけ年上のマナは特に酔っていた。マナはライトブラウンのミディアムショートヘアの髪をした女性だった。全体的に丸みを帯びた外観をしていたが、太っているわけではない。そのグループの中のムードメーカー的な存在だった。

 先頭を切って駅へ向かうマナの横にパ・カオはいた。パ・カオは歩くのが速いので、必然的にそうなってしまうのだ。もちろん初めはアイコの近くを歩いてみたかった。ただ、パ・カオにはそれを止める理性が残っていた。飲んでいても、ちらりと時々アイコのほうを見てしまう……そんな自分の行為の気持ち悪さがパ・カオを抑制していた。

 結果的にはそれがよくなかったのかもしれない。

 歩く速度が速すぎたせいで、トップにいたマナ、パ・カオと、後方でゆったりとした足取りの3人の距離が少し空きすぎていた。そこで一旦止まって待つことにしたのがパ・カオの油断だった。

 駅向かいで楽園へ導かんとするかのように煌々と光るブランド服の店。高級な店内の商品とは違い、パ・カオの服はカジュアルな若者向けの店舗で買ったもので、そのときすでに少ししなびていた。しなびれば当然、袖口や首回りが緩くなる。

「パ・カオ君、胸毛あるんだ!」

 マナの声に思わず胸元に手を置いたパ・カオ。

「どうして隠すの?いいじゃん」

 そう続けるマナに、少しパ・カオの気が緩んだ矢先のことだった。

「えーーーーー!胸毛とかぜったいあり得ないわ!」

 アイコの声がすぐ近くにあった。

 

第二章:プルーストと毛

 

 子供のときは確かに肌色だけだった。なら、その色失ったとき、僕は子供ではなくなったのだろうか?

 アイコの声は、パ・カオが保育園の頃に幼い気持ちを抱いていた人のそれに似ていた。まだ気持ちの機微がわからない年齢である。

 いつのまにか卒園し、消えてしまった薄緑色に通過した優しい思い出が、

「えーーーーー!胸毛とかぜったいあり得ないわ!」

の一声で、濁ったものになった。

 初めて陰毛を確認した十二の夜。それから3年。絡みつく蛇のようにゆっくりと、それでいて確実に全身に濃く強く生えていく体毛への苦悩。そんな汚く臭く蓋をしておきたい記憶が、5秒もしない期間の中でパ・カオの脳内を駆け巡った。

 そこにいるのにそこにいないようなきもち。

 酔いは完全に覚めていた。

「え、胸毛いいじゃん」

 マナが笑いながら沈黙を破った。グループの中でも一番酔っていたマナは、その日、終始上機嫌だった。

 マナとアイコが胸毛のトークに夢中になり駅に向かい始め、当事者であるパ・カオは置き去りにされた。

 後ろにいた残りの二人組みが追いつき、パ・カオは何も起きていないかのように酔ったふりをして適当なことを話していた。何を話していたのかは記憶に残らなかった。ただ、アイコの言葉だけが頭の中で繰り返し再生されていた。

 駅に着き解散し、彼らとはそれきりだった。

 

第三章:青春エネミーゴ

 

「パ・カオ君って、意外と日焼けしているんだね」

 それは、中学校の体育の授業中だった。 そしてそれは、パ・カオがもらった初めての異性からの称賛の言葉だった。

 言葉上は。

 パ・カオはその身の不運を呪った。その言葉の裏の意味の残酷さに総毛立つような寒気を覚えた。

 誰も悪くなかったその言葉を発した女子もパ・カオも。ただ、時代と運命だけがその責任を負っていた。生殺与奪の権をまだ保護者に握られている年代の少年少女に何ができたであろうか。少女は自分が見えたことを自分の言葉で表現し、パ・カオはパ・カオで、その言葉の意味をその意味以上に理解したのである。真実を知る者のひとりとして。

 中学3年生に上がる頃には、パ・カオのムダ毛は出来上がっていた。髭、肩、腕、胸、腹、陰毛。そして、脚。すね毛だけではなく、太ももまでもがイエティのように毛に覆われていた。

 人でありながらも、人でないようにパ・カオは感じていた。自分はクラスメイトやすれ違う人、そしてテレビにでている有名人などで作られたヒトトシテノジョウシキにあてはまっていない。

 友人と遊び、宿題を終わらせ、飯を食べ、テレビを見る。その日常に、そっと潜んでいる人ならぬもの。それが自分ではないのだろうか。クラスの誰も、学年の誰も自分のような体をしていない。

 風呂に入り濡れるたび、自分の肌色が灰色にくすんだ。遠目に見れば、日に焼けた肌の色に見えなくもなかった。

 冬の間はよかった。体操服は長ズボンであり、脚を隠すことができた。シャツの上に長袖を着てしまえば、胸毛に気づかれることもなかった。

 問題は衣替えだった。夏冬どちらの体操服を着てもいい期間が終わり、夏用の体操服を着て参加しなければならなくなった。

 パ・カオは、体育を休むようにした。しかしその手は何度も使えるものではなかった。ある日、男性の体育教師に職員室に呼ばれ理由を問いただされた。

 脚のムダ毛が濃いのが嫌で休んでいた。その理由を聞いたとき、教師は何やら熱い言葉でパ・カオの悩みを一笑した。表面上だけの熱血漢。大人にもなりきれていない少年少女の間で起きていることは、その年代なりの解決方法以外には存在しないことがあるのだ。

「うわっ」と先と同じ少女が不満げに声を漏らした。

「毛じゃん」

 パ・カオはいやいや体育の授業に半ズボンで参加し、他の男子に混じってトラックを走り、心拍数があがっていた。

 クラスメイトの女子の言葉は聞こえないふりをした。鼓動がさらに早く脈打っているのがわかった。何か世の中の真実を知ったように視界がふらついた。

 

第四章:わたし以外もわたしじゃない

 

 コンプレックスは成長を促すと言われる。人は抱えたコンプレックスを解消するために行動するからである。

 また、コンプレックスは自我を肥大化させるとも言われる。コンプレックスを抱えた人は、そのコンプレックスについて何度も思い、考え、あがき、もがき。その結果として他の何よりもそのコンプレックスと自分との重なりが濃くなるからである。

 パ・カオもそのひとりだった。自分の体毛の濃さについて悩み、落ち込み、憎むことを繰り返し、いつのまにか関係あることないことすべてを体毛に繋げて受け止めるようになっていた。パラノイアにも近い妄想であった。

 誰かの視線が自分の体毛を見ている気がした。誰かが自分の近くから離れれば、体毛にふれたくないからだと思い込んだ。

 世の中のできごとが、すべて濃い自分の体毛につながっているように思えてならなかった。

 大学に入りひとり暮らしが始まり、パ・カオは初めて脱毛に手を出した。

 まずは剃刀で全身のムダ毛を剃ってみた。大変な作業だった。髪の毛、眉毛、まつ毛以外のすべての毛を剃った。陰嚢の裏や肛門の周りも鏡を使いながら丁寧に剃っていった。

 そして数時間後、鏡の前にはムダ毛のないパ・カオが誕生していた。小学校の低学年の頃のように、まつ毛より下の毛がなくツルツルだった。服も下着もズボンも、そのさわり心地がまったく違っていた。

 直接肌に生地がふれる。そんな感覚さえも忘れていたことをパ・カオは思い出した。幸せだった。濃く濁ったコンプレックスの意識が、すっかりと消えていた。翌朝までは。

 次の日の朝、パ・カオは息をのんだ。夜までは毛がなく綺麗だった肌に、無数の黒い点が見えていた

 それは毛頭だった。パ・カオの毛の成長速度が速すぎた。朝剃った髭が夕方前には生えてくる。それは他の毛も同じだったということだった。

 パ・カオは落胆した。

 しかし落胆している暇も与えないほど、尻や陰部が痒くなってきた。短く突き出た毛の頭が、触れ合う肌にやすりのように擦れていた。

 そして、恥ずかしさもあった。毛頭が出た状態は、トライポフォビアでも引き起こすのだろうか。同じ毛であるのに、毛として生えていた状態よりも恥ずかしく思えた。自分がムダ毛を気にしている証左であることも、恥の意識を上塗りしていた。

 パ・カオは根気よく剃り続けた。毎日。数時間。

 さらなる絶望感に打ちひしがれたのは、それから数か月も経たない頃だった。

 ムダ毛が増殖したのだ。ひとつの毛穴から二本、三本と、太く濃い毛が生えるようになっていた。

 自分の意図とは逆方向に体が進化し、パ・カオには希望がなくなったような気がした。

 

俺はこの体で死ぬまで生きなければならないのか?

 

 絶望が思考を狭めた。生きている以上、体毛から逃げられない。体毛が止まることなく生えてくる。

 生きている以上。

 それでもパ・カオは他の脱毛方法を模索した。パパイヤ酵素の入った脱毛クリームを試したり、根気よくピンで抜いてみたりもした。

 しかし問題は解決しなかった。パ・カオのムダ毛は持ち主をあざ笑うかのように毎日顔を出した。

 

第五章:無駄の踊り子

 

パ・カオは二十一歳になっていた。

ムダ毛との攻防の日々は続いていた。激しさだけが増していた。

主な理由は、剃毛する頻度が増えたからだった。夕に剃っても朝になれば顔を出してくる毛頭たちをまた刈らなければならなかった。

毛穴が存在しない層まで皮膚を剥がしてやろうか。

強気な考えだけが頭の中によく浮かんだ。パ・カオは膿んでいた。それでも定期的に剃っていれば、コンプレックスが薄れるような気がした。

その日、パ・カオは伊豆にいた。それはパ・カオが所属していた芸術系のサークルの合宿のためであった。

何かしら作品を作っているとパ・カオの心は安らいだ。自身の体のことについて考える余地がなくなるからだった。だからパ・カオは大学に入ったあとで、芸術系のサークルに所属することにした。

他のサークルメンバーたちにくらべ、パ・カオの作品には執念のようなものが籠もっていた。時には文化祭出催した展覧会に来た観覧者の子供を怖がらせる作品まであった。

パ・カオは合宿の幹事のひとりだった。そのことはなにかしらパ・カオの矜持をくすぐっていた。あとは日程中、タイミングよく毛さえ剃っていれば問題なくイベントをこなせるはずだった。

シャワー中はもちろんのこと、パ・カオは誰よりも早く起き、洗面所で剃刀を皮膚に走らせた。

しかし伊豆二日目のことである。

「うわっ……毛だ」

後輩のユウコの声が後ろからした。由比ヶ浜の砂浜で、先輩が買ってきたスイカでスイカ割りをしようとパ・カオが準備をしているときだった。

他の男性メンバーと同じく、パ・カオは海パンしか身につけていなかった。そして咄嗟に、ユウコが言及しているものの正体がわかった。

背中に広がっていたムダ毛だった。毛は、肩の裏側に、うなじから上半身の半分ぐらいまで背骨に、そして腰の側面にあった。残っていたといったほうが正しいのかもしれない。なにしろ普段自分からは見えない場所について、パ・カオが剃るのを忘れていたのだから。

それでもそれは、まだ二十歳にもなっていないユウコの心に嫌悪感を抱かせるのに十分条件を満たしていた。

パ・カオはそれは背中でなく坂本龍馬にもあったといわれる鬣である、とユウコの心に一切響かない道化を演じ、自分自身の心には蓋をした。

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