第一章:それでも僕はやっていない
この世界に希望はあるのか。
それがパ・カオの口癖だった。口癖といっても、実際に声にだしているわけではなく、気が付いたら考えていた。考え癖と呼ぶのが正しいのかもしれない。
ある夏の夜。パ・カオは職場仲間との飲み会に参加していた。都内繁華街、こじゃれた商業施設の上階の一室での電話対応をする仕事で、訓練のときから生き残ってきた面々だ。
その中のひとりに、パ・カオは淡い恋心を抱いていた。知的な顔立ちに薄い眼鏡を掛け、それでいて笑うときは少し豪快に、とはいえ可愛いと呼べる範囲に当てはまるぐらいの勢いのある声を立てる。そのギャップで、パ・カオはアイコに惹かれていた。
日々、理不尽な顧客対応に追われたつかの間の飲み会だった。同期で仲良くなった男2人、女子3人という少人数。胸も高鳴るってもんですよね?
しかし、結果は残酷だった。
少しお酒が入っていたのも手伝ってか、駅に向かう5人は、足取りだけでなく口も軽くなっていた。パ・カオより少しだけ年上のマナは特に酔っていた。マナはライトブラウンのミディアムショートヘアの髪をした女だった。全体的に丸みを帯びた外観をしていたが、太っているわけではない。そのグループの中のムードメーカー的な存在だった。
先頭を切って駅へ向かうマナの横にパ・カオはいた。パ・カオは歩くのが速いので、必然的にそうなってしまうのだ。もちろん初めはアイコの近くを歩いてみたかった。ただ、パ・カオにはそれを止める理性が残っていた。飲んでいても、ちらりと時々アイコのほうを見てしまう……そんな自分の行為の気持ち悪さを自覚し、パ・カオは自分の行為を抑制しようとしていた。
歩く速度が速すぎたせいで、トップにいたマナ、パ・カオと、後方でゆったりとした足取りの3人の距離が少し空きすぎていた。そこで一旦止まって待つことにしたのがパ・カオの油断だった。
駅向かいで楽園へ導かんとするかのように煌々と光るブランド服の店の連なり。高級な店内の商品とは違い、パ・カオの服はカジュアルな若者向けの店舗で買ったもので、そのときすでに少し萎びていた。萎びれば当然、袖口や首回りが緩くなる。
「パ・カオ君、胸毛あるんだ!」
マナの声に思わず胸元を手で隠したパ・カオ。
「どうして隠すの?いいじゃん」
そう続けるマナに、少しパ・カオの気が緩んだ矢先のことだった。
「えーーーーー!胸毛とかぜったいあり得ないわ!」
アイコの声がすぐ近くにあった。
第二章:プルーストと毛
子供のときは確かに肌色だけだった。なら、その色を失ったとき、僕は子供ではなくなったのだろうか?
アイコの声は、パ・カオが保育園の頃に幼い気持ちを抱いていた人のそれに似ていた。まだ気持ちの機微がわからない年齢である。
いつのまにか卒園し、消えてしまった薄緑色に通過した優しい思い出が、
「えーーーーー!胸毛とかぜったいあり得ないわ!」
の一声で、濁ったものになった。
初めて陰毛を確認した十二の夜。それから三年。絡みつく蛇のようにゆっくりと、それでいて確実に全身に濃く強く生えていく体毛への苦悩。そんな汚く臭く蓋をしておきたい記憶が、数秒もしない内にパ・カオの脳内を駆け巡った。
そこにいるのにそこにいないようなきもち。
酔いは完全に覚めていた。
「え、胸毛いいじゃん」
マナが笑いながら沈黙を破った。グループの中でも一番酔っていたマナは、その日、終始上機嫌だった。
マナとアイコが胸毛のトークに夢中になり駅に向かい始め、当事者であるパ・カオは置き去りにされた。
後ろにいた残りの二人組みが追いつき、パ・カオは何も起きていないかのように酔ったふりをして適当なことを話すように努めた。何を話していたのかは記憶に残らなかった。ただ、アイコの言葉だけが頭の中で繰り返し再生されていた。
駅に着き解散し、彼らとはそれきりだった。
第三章:青春エネミーゴ
「パ・カオ君って、意外と日焼けしているんだね」
それは、中学校の体育の授業中だった。そしてそれは、パ・カオがもらった初めての異性からの称賛の言葉だった。
表面上は。
パ・カオはその身の不運を呪った。その言葉の裏の意味の残酷さに総毛立つような寒気を覚えた。
誰も悪くなかった。その言葉を発した女子もパ・カオも。ただ、時代と運命だけがその責任を負っていた。生殺与奪の権をまだ保護者に握られている年代の少年少女に何ができたであろうか。少女は自分が見えたことを自分の言葉で表現し、パ・カオはパ・カオで、その言葉の意味をその意味以上に理解したのである。真実を知る者のひとりとして。
中学三年生に上がる前には、パ・カオのムダ毛は出来上がっていた。髭、肩、腕、胸、腹、陰毛。そして、脚。すね毛だけではなく、太ももまでもが雪男のように毛に覆われていた。
人でありながらも、人でないようにパ・カオは感じていた。自分はクラスメイトやすれ違う人、そしてテレビにでている有名人などで作られたヒトトシテノジョウシキにあてはまっていない。
友人と遊び、宿題を終わらせ、飯を食べ、テレビを見る。その日常に、そっと潜んでいる人ならぬもの。それが自分ではないのだろうか。クラスの誰も、同じ学年の誰も自分のような体をしていない。
風呂に入り濡れるたび、自分の肌色が灰色にくすんだ。遠目に見れば、日に焼けた肌の色に見えなくもなかった。
冬の間はよかった。体操服は長ズボンであり、脚を隠すことができた。シャツの上に長袖を着てしまえば、胸毛に気づかれることもなかった。
問題は衣替えだった。夏冬どちらの体操服を着てもいい期間が終わり、夏用の体操服を着て参加しなければならなくなった。
パ・カオは、体育の授業を休むようにした。しかしもちろん、何度も使える手ではなかった。ある日、男性の体育教師に職員室に呼ばれ理由を問いただされた。
脚のムダ毛が濃いのが嫌で休んでいた。その理由を聞いたとき、教師は何やら熱い言葉でパ・カオの悩みを一笑した。表面上だけの熱血漢。少年少女の間で起きていることは、その年代なりの解決方法以外には存在しないことがあるのだ。
「うわっ」と先と同じ少女が不満げに声を漏らした。
「毛じゃん」
パ・カオはいやいや体育の授業に半ズボンで参加し、他の男子に混じってトラックを走り、心拍数があがっていた。
クラスメイトの女子の言葉は聞こえないふりをした。鼓動がさらに早く脈打っているのがわかった。世界の残酷な真理を脳に強制的に注入されたようだった。吐き気がし、視界がふらついた。
第四章:わたし以外もわたしじゃない
コンプレックスは成長を促すと言われる。人は抱えたコンプレックスを解消するために行動するからである。
また、コンプレックスは自我を肥大化させるとも言われる。コンプレックスを抱えた人は、そのコンプレックスについて何度も思い、考え、あがき、もがき。その結果として他の何よりもそのコンプレックスと自分との重なりが濃くなるからである。
パ・カオは後者だった。自分の体毛の濃さについて悩み、落ち込み、憎むことを繰り返し、いつのまにか関係あることないことすべてを体毛に繋げて受け止めるようになっていた。パラノイアにも近い妄想であった。
誰かの視線が自分の体毛を見ている気がした。誰かが自分の近くから離れれば、体毛にふれたくないからだと思い込んだ。
世の中のできごとが、すべて濃い自分の体毛につながっているように思えてならなかった。
大学に入りひとり暮らしが始まり、パ・カオは初めて脱毛に手を出した。
まずは剃刀で全身のムダ毛を剃ってみた。大変な作業だった。髪の毛、眉毛、まつ毛以外のすべての毛を剃った。陰嚢の裏や肛門の周りも鏡を使いながら丁寧に剃っていった。
そして数時間後、鏡の前にはムダ毛のないパ・カオが誕生していた。小学校の低学年の頃のように、まつ毛より下の毛がなくツルツルだった。服も下着もズボンも、そのさわり心地がまったく違っていた。
直接肌に生地がふれる。そんな感覚さえも忘れていたことをパ・カオは思い出した。幸せだった。濃く濁ったコンプレックスの意識が、すっかりと消えていた。
翌朝までは。
次の日の朝、パ・カオは息をのんだ。夜までは毛がなく綺麗だった肌に、無数の黒い点が見えていた
それは毛頭だった。パ・カオの毛の成長速度が速すぎた。朝剃った髭が夕方前には生えてくる。それは他の毛も同じだったということだった。
パ・カオは落胆した。
しかし落胆している暇も与えないほど、尻や陰部が痒くなってきた。短く突き出た毛の頭が、触れ合う肌にやすりのように擦れていた。
そして、恥ずかしさもあった。毛頭が出た状態は、トライポフォビアでも引き起こすのだろうか。同じ毛であるのに、毛として生えていた状態よりも恥ずかしく思え冷や汗がでるばかりだった。自分がムダ毛を気にしている証左を強く叩き込まれたようで、恥の意識を上塗りしていた。
パ・カオは自分を根気よく剃り続けた。毎日。数時間。
さらなる絶望感に打ちひしがれたのは、それから数か月も経たない頃だった。
ムダ毛が増殖したのだ。ひとつの毛穴から二本、三本と、太く濃い毛が生えるようになっていた。
自分の意図とは逆方向に体が進化し、この世の希望がなくなったように感じられた。
俺はこの体で死ぬまで生きなければならないのか?
絶望が思考を狭めた。生きている以上、体毛から逃げられない。体毛が止まることなく生えてくる。
生きている以上。
それでもパ・カオは他の脱毛方法を模索した。パパイヤ酵素の入った脱毛クリームを試したり、根気よくピンで抜いてみたりもした。
しかし問題は解決しなかった。パ・カオのムダ毛は持ち主をあざ笑うかのように毎日躊躇なく顔を出してきた。
第五章:無駄毛の踊り子
パ・カオは二十一歳になっていた。
ムダ毛との攻防の日々は続いていた。激しさだけが増していた。
主な理由は、剃毛する頻度が増えたからだった。夕に剃っても朝になれば顔を出してくる毛頭たちをまた刈らなければならなかった。
毛穴が存在しない層まで皮膚を剥がしてやろうか。
強気な考えだけが頭の中によく浮かんだ。パ・カオは膿んでいた。それでも定期的に剃っていれば、コンプレックスが薄れるような気がした。
その日、パ・カオは伊豆にいた。それはパ・カオが所属していた芸術系のサークルの合宿のためであった。
何かしら作品を作っているとパ・カオの心は安らいだ。自身の体のことについて考える余地がなくなるからだった。だからパ・カオは大学に入ったあとで、芸術系のサークルに所属することにした。
他のサークルメンバーたちにくらべ、パ・カオの作品には執念のようなものが籠もっていた。時には文化祭出催した展覧会に来た観覧者の子供を怖がらせる作品まであった。
パ・カオは合宿の幹事のひとりだった。そのことはなにかしらパ・カオの矜持をくすぐっていた。あとは日程中、タイミングよく毛さえ剃っていれば問題なくイベントをこなせるはずだった。
シャワー中はもちろんのこと、パ・カオは誰よりも早く起き、洗面所で剃刀を皮膚に走らせた。
しかし伊豆二日目のことである。
「うわっ……毛だ」
後輩のユウコの声が後ろからした。由比ヶ浜の砂浜で、みんなでスイカ割りをしようとパ・カオが準備をしているときだった。
他の男性メンバーと同じく、パ・カオは海パンしか身につけていなかった。そして咄嗟に、ユウコが言及しているものの正体がわかった。
背中に広がっていたムダ毛だった。毛は、肩の裏側に、うなじから上半身の半分ぐらいまで背骨に、そして腰の側面にあった。残っていたといったほうが正しいのかもしれない。なにしろ普段自分からは見えない場所について、パ・カオが剃るのを忘れていたのだから。
それでもそれは、まだ二十歳にもなっていないユウコの心に嫌悪感を抱かせるのに十分条件を満たしていた。
パ・カオはそれは背中でなく坂本龍馬にもあったといわれる鬣である、とユウコの心に一切響かない道化を演じ、自分自身の心には蓋をした。
第六章:人間合格
どんなものにも合格点というものがある。入試や会社の企画といった基準がわかりやすいものから、料理の味、ウオシュレットトイレの便座の温度といった主観的で基準が個人の判断に委ねられているものまで種々雑多である。
及第点に達しないものは、拒否され、いじられ、嘲笑のネタになったりもする。受験に失敗したものを陰で馬鹿にする話は誰でも聞いたことがあるのではないだろうか。
それは体毛の量にも言える。量が少なければすくないほど合格点に近づき、ある一定の量を越えた時点で社会で落第する。体毛不合格者という烙印が押されるのである。
体毛不合格者に待ち受けているのは、毛が濃いからだと言われるオチに使われたり、暑そう、不潔そうという理由で距離を取られるという嘲りや拒絶。それらはマスメディアを含んだ大多数の力と脱毛を謳う広告の溢れる社会環境の相互作用によって成り立っていた。
大学を卒業したパ・カオが直面したのは、まさにそんな社会だった。
パ・カオの会社には、ふたりの体毛不合格者がいた。パ・カオと先輩のカツミだった。カツミはパ・カオより十歳以上年上で、どちらかと言えば激情型の男だった。カツミは普段は温厚だった。後輩の面倒見もよく、客への愛想もよかった。しかしいったんスイッチが入ると、頑固になり、話し方にも熱がこもり、社員客関係なく大声を出すような特異点だった。
そんな常識を逸したようなカツミの存在のおかげで、パ・カオは助かっていた面がある。パ・カオより毛深く、仕事上問題を起こしやすいカツミに否が応でも職場のメンバーの注目が向いていたからである。カツミの毛深さは、体全体だけにとどまらず、青い髭、太く濃く長い眉にまで及んでいた。パ・カオの毛深さ値を七十とするなら、カツミのそれは百に達していた。
常日頃からカツミの毛深さは会社での笑いのネタになっていた。カツミが何か問題を起こしたときにも、ムダ毛に常識を吸い取られているのではないかと言われる始末だった。そしてカツミ自身も、自分のムダ毛の濃さを使ってジョークを飛ばすことがあった。自分自身の身体的な特徴をネタにすることは諸刃の剣であった。本人が言っているのだから、別に他の人間もからかいのネタにしていいのだろうという雰囲気が伝播していくからだ。
そのような体毛合格者達による体毛不合格者の扱いをまざまざと見せつけられ、パ・カオは戦慄した。
誰もがその笑いに隠された悪意に気が付いていない。もしくは気が付いても、意識から消して行為を続けているのだ。子どものような無邪気さや無知から来るものではない。むしろ、周りに合わせることを知り、学び、実行することができるようになった大人ならではの行為だった。
パ・カオも例外ではなかった。特異点が側にいたから、相対的に自分に向けられることがなかった悪意は、パ・カオ自体が体毛合格者達による体制側にいる、もしくは体制側に背かないふりを続けることによって多少なりとも内在化していた。
第七章:嫌われムダ毛の一生
パ・カオがムサシと会ったのは、三十歳を過ぎてからだった。ムサシはパ・カオよりもいくつか年上だが、あまり仕事をしてこなかったことと引き籠っていた影響で、見た目はパ・カオと同じくらい。もしくはパ・カオよりも若く見えることもあるくらいだった。大人になってからの友だちというのは貴重なものである。また時には、重要となることもある。同性同士で気楽に話せる仲のためか、パ・カオはことあるごとに自分のムダ毛による不満や失敗話をムサシに打ち明けていた。
そんなある日、ムサシがケノンの話をパ・カオにしてきた。
ムサシが毛深い種族でないことは、パ・カオは知っていた。パ・カオのように手の甲に毛もなければ、髭も薄く、本人も薄いほうだと言っていた。しかしそれでも、ムサシは家庭用脱毛器であるケノンを使っていると述べた。
ムサシは美容に興味があった。歯のホワイトニングをしたり、日が強い季節になれば長袖やサンバイザーにも似た帽子で紫外線から身を守るような恰好をしていた。そんなムサシが、脱毛器に手を出したのは当然のことかもしれない。ムサシは脱毛クリニックにも通っていた。とはいえ、もともと毛が薄いので、お試しキャンペーンを繰り返したりする程度だった。唯一、陰毛のみはきちんとコースを申し込んで通っていた。それ以外の部位は、ケノンを使えば処理できるという算段であった。
そして確かにケノンはムサシに効果があった。もともと薄い毛のムサシのムダ毛は、無毛というほどになくなり、もし生えてきたとしても数か月に一度ぐらいのペースで認識できるぐらいになった。
その話をムサシから聞き、パ・カオは迷った。学生時代を含め、脱毛によいとされるものは試してきたが、効果がなかった。その記憶がケノンの効果を疑わせた。ただ、根拠のある疑いではなかった。パブロフの犬のように、脱毛商品=効果がない、という図式が頭にできていたせいであった。しかしあらためて目の前の友人が実際に使って効果があると主張され、確かにパ・カオの目にもその効果が見えるという現実を突きつけられ、パ・カオは決断をした。
注文して数日後、パ・カオの家には家庭用脱毛器ケノンがあった。
第八章:脱毛の魔術師ケノン
パ・カオは悩んでいた。
ケノンが届き、いざさっそく使ってみようと思ったパ・カオ。
しかし、どこから手をつければいいのか?
全身を覆うムダ毛。しかし、手元にあるケノンの照射口のサイズは、一口用の羊羹のそれに似ていた。この膨大なムダ毛地帯を前にして、パ・カオの脳はフリーズした。過去の記憶をたどれば、どのムダ毛にもそれにまつわるトラウマが、悔しさが、あった。そのため、優先順位をつけるのが難しかった。
しかしそれでも、人は決めねばならない。一歩を踏み出さねばならない。パ・カオは、腕毛地帯に攻め入ることを決断した。
そこからは早かった。
まずパ・カオはケノンを召喚する前段階の儀式として、腕の毛を剃刀で剃った。久々にむき出しになった茹でた卵のような肌にパ・カオは少し感動を覚えた。そしてケノンすれば、この状態がずっと続くのかと興奮した。腕だけでなく、手の甲や指に生えた毛も剃った。
『召喚』――そう、ムダ毛を無くしてくれるというケノンに対して、パ・カオは女神のような気持ちを抱いていた。
次にしたのは、ケノンを召喚するための道具の準備だった。必要なものは二つ。ケノンが召喚されたときの光を通さない遮光眼鏡と照射前後に使う保冷剤である。そして、ケノンの召喚の設定も必要だった。召喚できるケノンにはレベルと連続攻撃設定の有無があった。レベルが上がればあがるほど攻撃力が増す。しかし、連続攻撃はその逆で、一回ごとの威力は弱めるが合算すれば同じ威力になるというものだった。また、召喚を手動でするか自動でするかという設定もできた。
パ・カオに迷いはなかった。
最強レベル+一撃必殺+自動。なるべく速くムダ毛におさらばしたかったパ・カオに、威力を弱めるという選択肢はなかった。それほどまでにムダ毛に対する憎しみが強かった。
ケノンが召喚される召喚口はカートリッジと呼ばれる。パ・カオはカートリッジをひとまず手の甲に当ててみた。すると、ケノンの機体にあるディスプレーに『ボタンを押すと照射できます』と表示された。パ・カオははやる気持ちを抑え、ケノンを召喚するボタンを押した。
その刹那。
閃光が走り、強烈な痛みをパ・カオは覚えた。力の限り輪ゴムで弾かれたような、そんな痛みだった。
撃っていいやつは、撃たれる覚悟があるやつだけだ。無垢な白い機体とカートリッジを前にして、パ・カオはそんな格言を思い出していた。
レベルを下げようとしたパ・カオだったが、ムダ毛をあり得ないと言ったアイコや、脚毛の濃さを日焼けしていると揶揄した中学の同級生や、背中の毛に嫌悪を隠さなかったユウコや、パ・カオより濃いムダ毛のために会社で馬鹿にされていたカツミの記憶が走馬灯のように湧きおこり、そのままのレベルで続けることにした。ちなみに、照射前と照射直後に保冷剤で冷やすと、痛みよりも冷たさが勝つことをその直後に知ることになった。
パ・カオは指、上腕、前腕とケノンを召喚し続けた。両腕が終わるころには、一時間近く時間が経っていた。パ・カオは充実した時間だったと思った。これで腕のムダ毛で馬鹿にされることはなくなるのだ。痛みも我慢できるほどに慣れてきた。あとはケノンの召喚を他の体の部位にも広げていけばいいのだ。ここちよい痛みとすべすべの腕とともに、パ・カオはその日、眠りについた。
そして翌日、それは起きた。
第九章:Code: Ke-non 復活のムダゲ
翌朝は落胆で始まった。
いつもどおりか。またこれか。
パ・カオは、剣山のようになった腕をさすりながら苦笑いした。前日ケノンを照射した腕には、ムダ毛の季節を告げるかのように毛の芽が生え始めていた。大学時代、脱毛クリームやローションで過ごした無駄な時間を思い出していた。期待に胸を膨らませ、いつか体毛が生えてこなくなると思い毎日身体に塗布したパパイヤ酵素の嫌な臭い。そんな努力をあざ笑うように、翌日には、いや、早いときは当日の夜には毛頭が出現し、剃れば剃るほど毛は濃くなり、分裂し、期待とは反対の効果を生み出していた。
結局あれを繰り返すのか。あれが繰り返されるのか。腕に広がる黒いぶつぶつを目の前にして、パ・カオはうなじの後ろあたりが冷たくなるのを感じた。
いや違う。
ひとしきり落ち込んだあとに、ある考えがパ・カオの中に持ち上がった。
今回は違うじゃないか。ケノンはムサシというリアルに知っている人物がその効果を実証していたじゃないか。確かに学生時代に試した脱毛方法は、広告に載っていたモデルの写真や美辞麗句に飾られた上手い宣伝文句を信じて失敗した。でも今回は、先にやった仲間の実験結果という確かなものがあるじゃないか。
続ける覚悟がパ・カオの魂に灯った。
その覚悟が奇跡の到来を可能にした。
第十章:ああっケノンさまっ!
パ・カオは考えることを止めた。
ひとまず続けてみよう。成功した例が身近にあるのだから。
パ・カオはケノンを照射し続けた。毎日、色々な体の部位に。毎日同じ箇所に照射するよりは、少し日を空けたほうがいいと説明書にあった。
大変だったのは、胸毛やギャランドゥを含む体の表面だった。なにしろ表面積が広い。そして、太ももと膝から下。特に太ももは面積が広いだけでなく、裏側に照射する際に、どこまで照射しているのか分からなくなることが難点だった。それは臀部にも言えた。鏡を見ながら照射することもできたが、最終的にはフィーリングで照射するようになった。それは肩の裏や背中、腰にも言えた。痛みで言えば、陰毛や蟻の戸渡りが最大だった。睾丸や陰茎にも毛が生えているのだが、その痛みは他の箇所の比ではなかった。そもそも照射前の剃毛が怖かった。
ケノンの照射サイクルが毎日体中をめぐり続けた。幸か不幸か、ケノンをする箇所はたくさんあった。
半月ほど経つと、毛の生えてくる速度は緩慢になっていたのを認められた。しかし、生えているとは呼べないほどの毛の萌芽の黒さが異様な光景を描くことがあった。剃ろうとしても剃れないほどの長さである。イチゴの種のような状態と言えば分かるだろうか。
その状態を抜けると、ようやく生えてこなくなる状態になった。
その日、今日も照射だと準備して身構えると、毛の萌芽さえ見えない箇所が多くなっていた腕へのケノン照射を始めて、ひとつきほど経過していた。それは小さな一歩にすぎなかった。しかし、パ・カオに取っては息をのむほどの崇高な一歩だった。体毛の薄い者や無い者とは決して分かち合えない、神秘的な体験だった。
パ・カオの頭に中に、過去のトラウマが走馬灯のように駆け巡り、ゆっくりと薄く消えていった。トラウマの強さが確実に弱まったのを感じた。
奇跡は起きる。信じた者には。
最終章:進撃のムダ毛
その日、パ・カオは気づかなかった。自分がしたことを。それが消えたことを。
「あいつらを……ムダ毛をこの世から駆逐してやるっ!」
昔日の気持ちが、まるでもともとなかったかのようになった。人は苦痛を忘れ、未来を生きていく。苦痛も屈辱も、過去は確かに存在したはずなのに、それは二度と同等の質でそこにあることはできない。その反対に、未来は存在が不確かであるのに、そこに存在する。ここに去来する。誰にもその実感を感じさせないまま。
過去を忘れることができない人は、その過去の中を生きていくことになる。過去が当時と同じ質で存在し、実感ない未来はただ通り過ぎていくのみである。
暑い日が続いていた。初夏よりも早い季節なのに、連日、真夏のような気温に達していた。パ・カオも暑さにあえぐ者のひとりだった。
パ・カオは暑さをしのぐために髪を切りに行った。髪を短くすると暑さは多少マシになったように感じられたが、まだ足りなかった。
パ・カオは散髪屋の隣にあった服屋に入った。元来汗かきだったので、持っている服の枚数だけでは異常な暑さに不足を感じていた。エアコンの効いた大衆向けの店には、安価な服や鞄だけでなく、調理器具やキャンプ用品、簡単な食料も置いてあった。パ・カオは数枚の服を部屋着として選んだ。そして、ふと目に入った黒い生地のそれを手に取った。短パンだった。
中学時代のあの体育の授業で受けた屈辱のため、パ・カオは常に足首まで隠れる長ズボンを履くようにしていた。短パンが目に入ることがあっても、腹のあたりに違和感が起こり、冷や汗に似た冷たい何かが視床下部のあたりを覆い、いわゆる『ガチ無視』をすることで事なきを得ていた。
だが、その日、そんな考えは試着室で短パンの大きさを試しているパ・カオの頭によぎらなかった。Мサイズがいいのか、Lサイズがいいのか。自分に合っているのは、ゴム紐の入ったやつかそれとも入っていないものか。色はどうしようか。狭い部屋の中の姿見を前に考えていたのは、他の衣服を選択するときと変わらないそんなことばかりだった。
支払いを済ませ家に戻ったパ・カオは、今は自分のものとなった短パンを狭い一人部屋で履き替えた。
途端、爽やかさが足元にあった。猛暑の中、快楽に似たその感覚は徐々に体を上昇し、衣類的には特に変化のない上半身を超え、脳に達した。
「ほんとにすっかり忘れていたんだ。あんなにも、いつもいつも頭にこびりついて、反芻して世の中の理不尽さに唾棄しそうにもなっていたのに」
パ・カオはその瞬間を振り返る。
「ずっと短パンとか肌を出すものを身につけるのが怖かったのに、いつのまにかそんな気持ちが消えていたんだ。ムダ毛が消えたら、トラウマっていうのかな、過去の嫌な記憶も気持ちも思い出そうとするまでどっかに行ってて、思い出しても今はすごく客観的に見える。客観的に見られるから、あの時の嫌な気持ちも何も感じないんだ。すごくニュートラルな気持ち」
パ・カオの顔は、満足げだった。
「ケノンには感謝している。すごくだ。いい?ここ大事は大事なところだよ。ス・ゴ・クだ。初めは正直疑心暗鬼だったさ(友だちがケノンで成功したからって、僕にも効果があるとは言えないからね)。でも、続けてみると確かに目に見えてムダ毛が生えてくる速度が下がっていって、それが今じゃこれさ。半年以上かかったかな」
といって指さした先には、ハムやソーセージのように毛の生えていない太ももと脛があった。もちろんその接合部分である膝にもムダ毛はなかった。
「おっとこれも忘れないでね」
足の指を見せながらパ・カオは笑った。
「今はこんなふうだけど、このあたりはすき間もないくらい毛に覆われていたんだ。まるで藻や海藻みたいに。シャワーとかで濡れたら、雪男みたいな脚の完成さ。最悪な気分で、こんなふうに最高の気分で脚を見ることなんでできなかった。自分の脚なのにね。腕や肩も見てみる?胸毛とかギャランドゥもよかったら」
体をなるべく隠そうとしていたあの頃のパ・カオは、もう、いなかった。


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