旧ムダ毛論
原始、男はムダ毛だった。
男の証と言えば濃い体毛が生えることであり、髭を蓄え、筋肉質な肉体の上に荒々しい毛を生やし、それを見せびらかすことに抵抗感はなかった。
つるっとした肌を持つものは女々しい、お公家様かなどとなじられ、馬鹿にされさえした。
しかし時代が下り、江戸時代にもなれば、男らしさは嫌われるようになっていた。
毛深さは田舎侍のようで垢ぬけない証拠とされた。
江戸の男たちはこぞって毛抜きで毛を抜いていた。
さらに時代が下り、帝国時代の奔流日本が巻き込まれると、また毛深さが好まれるようになっていった。
強い人が必要とされる時代だった。
戦後、日本は武装解除され、強い男は必要なくなった。
しかし、駐留軍の男たちは毛深く、また彼らからもたらされる映画などの娯楽に映る俳優も毛深いものが多かった。
娯楽の中で、毛深い男は伊達な男としてもてはやされていた。
新ムダ毛論
ムダ毛たちにはベルエポックだった時期に終わりがきた。
欧米の娯楽作品に、徐々に毛深くない俳優たちが起用されるようになったのだ。
その影響を受けたかのように、日本でも毛深くない男たちが主演を張る俳優として演じるようになってきた。
相対主義と冷笑主義が蔓延し、男らしさとムダ毛の価値は三島由紀夫と一緒に地に落ちていた。
現在、ムダ毛は嘲笑の道具になった。
または、唾棄すべきものとして扱われるようになった。
西洋の魔女狩りは、東洋の島国のムダ毛狩りとなって日本で渦巻いていた。
テレビ、映画、漫画といった娯楽作品では毛深い男は笑いのネタとなった。
北陸では、伝統的な祭りのためのポスターに胸毛をあらわした男性が映っていることをセクハラだと主張するものが現れた。
ムダ毛を脱毛することが正義であると言わんばかりに、現実世界でもオンラインの世界でも脱毛の広告があふれんばかりであり、市民を啓蒙しようと躍起になっている。
そのような時代に、僕たち体毛の濃い男たちはどう生きればいいのか。
毛深いまま生き、虐げられ、馬鹿にされ、平均温度の上がったこの世界で自らの体毛の厚さに絶望すべきであろうか。
否である。
もしも状況を変えられる方法があるなら、試すべきである。
それが脱毛であるなら、飛び込んで実行せねばならない。
脱毛は迎合にはならない。
脱毛しても、毛深い者たちを馬鹿にしてきた社会に首をたれたり追従することにはならない。
むしろ敵地に入り込んで、その中から変えていくことができるのは、僕たち毛深い者たちだけではないだろうか。
なぜなら僕たちは、脱毛しても毛深いときに味わってきた屈辱をしっている。忘れることはない。忘れられるはずがない。
その苦しみを知っているからこそ、毛深い者たちに対して優しくなれるはずだ。
僕たちは毛深い人たちを馬鹿にすることも忌避することもない。自分がされて嫌だったことを、誰かにしようとはしない。
そうして、元毛深い者たちが毛深くない者たちの中に増殖することにより、毛深い者たちを蔑む者たちが相対的に減っていく。
そのときこそ、僕たち毛深い者が社会をハックすることができ、社会時代が変わるのではないだろうか。


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